1-4.狩野洋一さん

投稿者: | 2022年2月24日

 出版社では、JRA-VANが配信していたデータのサービス(現Data Lab.の前身のサービス)や、西田式スピード指数の「スーパーパドック」のサポートからスーパーパドック関連のデータ配信等のサービス、ダイヤルQ2使っての出馬表配信、競馬本(予想関連)の編集、本の一部の原稿担当、予想サイトの運営、TARGETのサポートなどかなり多岐に及んだが、元々PCは強い方だったので難なくこなせた。
ネット競馬ができる前主流だったNIFTYの競馬フォーラムや競馬サイトのポータルもよく見ていたし、NIFTY MANAGERもサービス終了までファイルのメンテナンスを行っていた覚えがある。
競馬関連のデータで何がいつ配信され、どういうデータがあるのかのデータ回り、スーパーパドックやTARGETの仕様もこの時にかなり理解が深まったように思う。
(電話でのサポートも行っていたので、電話で状況を聞いてPCがどういう状態なのか理解し、どうすれば直るかを画面見ずに応えたりしていたので、応えるにはこちらもそれなりに知ってないと…と)

幸運にも作業が終わると、「終わったら特に仕事ないので、好きな事やってても構わない」と半分ぐらいは自由に時間が使えたので、参考で購入されていた他社の競馬本(馬券本や雑誌)、西田式スピード指数関連の理解等に時間を当てる事ができた。
西田式スピード指数についてはこちらをご覧いただければと思う。
昼間仕事をしつつ、空いている時に競馬本を読んだりし、家に帰ってからひたすらレースリプレイを見てTARGETにメモを記入する日々。テレビもほとんど見ていなかったので、今思えば、端から見ると変わり者として見られていたかもしれない。

 この出版社時代に直接お会いはしなかったものの、かなりの多くのライターさんとも連絡(メール・電話)させていただいたのだが、狩野洋一さんと打ち合わせさせていただく時はいつも大井競馬場ので、大井でよくお会いさせていただいていた。
諸事情で出版社を退職したのだが、同じタイミングで弟(三男)が大学進学のため上京。次男は元々横浜に住んでいたのだが、三男の上京をきっかけに品川の港南口のマンションを借りて3人で住み始めたのだが、たまたま狩野さんから連絡いただき、大井競馬場でご一緒させていただいた時に、転職&引っ越しした事をお伝えすると家がかなり近いことが発覚。大井競馬場の中の飲食店や、最終レース後に天王洲アイルでよくご馳走いただき、タクシーで狩野さん宅に戻り、奥様に挨拶させていただいて、歩いて帰るというパターンが何度あった事が…。お子さんがいらっしゃらない事もあってか、かなり良くしていただいたように思う。
狩野さんご自身のいろんなお話も結構聞かせていただいた。競友の記者時代(福永洋一騎手や安藤勝己騎手とも親しくさせていただいていたとおっしゃられていました)、プロ麻雀時代、日暮里で麻雀店経営されていた頃など。ある日、狩野さんから「港区の特別養護老人ホームに空きが出て、妻が(狩野さんの奥さんが)応募したら300倍ぐらいの倍率が当たったので、引っ越す今年にした。家具等も処分しようと思うので、必要あれば処分する前にあげるよ」と連絡をいただき、本棚をいただいた。これも偶然だが、私が借りていたマンションの2棟横にあった施設だったので、引っ越し次いでに家の前に本棚を置いいただいた。

 いつだったか、一緒に食事させていただいている時だったか、ライターとして食べていきたいという旨を話した事があり、覚えていただいていたのか、当時狩野さんが書かれていたネット競馬が運営していた、馬券総合倶楽部の担当の方につないでいただき、馬券総合倶楽部で書くようになった。その流れでウマい馬券にも出させていただいている。
狩野さんもペンネームで本名は別なのだが、「洋一」は福永洋一騎手からいただいたと。私の「野村明」という名前も、狩野さんの「野」、私の名字の「村」で「野村」。当時、狩野さんが馬券総合倶楽部で「馬券小説」を書かれていたのだが、おじいちゃんが孫に競馬を教えるというような話の孫の名前が「明」で「野村明」というペンネームで、私が誕生した。

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